22.05.01.05

今日6本目の記事を書いている。中毒になっているようだ。またこのまま飽きてしまうのではないかという気もする。そしてそんなに書くことがあるだろうかという気もする。

 

とにかくさっきの5本目の記事は最終的に抽象的なことを書いてしまった。一般論というか論理をやりとりしているだけで何にも言っていない気もする。

 

僕はここで何を書きたかったのだろう。別に何か決まったことを書こうと思って始めたわけではないから、何を書くことになってもそんなに気にしないんだけれど、楽しく書くことができればいいなと望んでいるだけだ。

 

今は夜の10時を回った。いつもの就寝時間を過ぎている。でもまあいいかなと思っている。特に価値のない人生だ。大きく生活リズムが崩れない程度であれば構わない。

 

もう書くことはないかな。もうコーヒーを飲むには遅い時間だし紅茶も結構飲んだ。

だんだんと眠たくなってきた。そろそろちゃんと眠って明日の古書即売会に備えようかな。さっきの記事で書いたことは放置しておこうか。そしてこのブログがどんな展開を見せていくかは全く謎のまま置いておこうか。ブログに限らず僕の人生が楽しく心地よいものであればそれでいいのだし。

22.05.01.04

少し時間的に早いけれど寝る前の睡眠薬を飲んだ。

今日はブログを始めることができただけで大満足だ。できるだけ続けていきたい。そのためには取り止めのないことを書いていきたいと思う。読む人のことは考えない。読む人がもしかしたらいるかもしれないということの意識が自分に少しあるだけで、書く気持ちを持つことができる。

 

今日はこれで5本目の記事なのだけれど、引きこもっていたことも書いたし統合失調症を持っていることも書いたし、最近の出来事であるタバコをやめたことも通信制大学を辞めることも書いたし、本を読むのが好きなことも書くのも少し好きだということも書いた。好きな作家の名前も書いた。寂しさと退屈についても少し書いた。僕の人生の中心にあった悩みについても書いた。働かないで良くて時間があることも書いたし、そんなにお金がないことも書いた。

 

これで僕に関することは大体全部書いてしまったように思える。

あと他には、詩のようなものを書いていた時期があることとか、これは書いていなかったけれど信仰を持っているということもある。snsに日常の投稿をしていることは書いた。母と二人暮らししていることも書いたし、人生で残されているすべきことは母を見送ることと兄弟の子供の成長を願うこと。後は、できるだけ僕の近くにいる人たちが幸せでいてくれること。そのために僕ができる範囲内のことはするということ。

それで大体僕の人生は言い尽くしているのではと思う。

 

僕は特に主張のない人間なのではないかなと感じる。

世の中にある問題なんて解決すればいいだけの話だし、(その解決が難しいのだろうけれど、基本的には解決を目指すということだし)、悩み事も大体のことは解決することができるのではないかと思う。その過程がとてもとてもえげつないほど辛いものであったとしてもだ。

そんなことを言っていれば、結局僕は何も言っていないに等しくて、ただの枠組みだけを説明しているようなものだし、なんの役にも立たないことを言っているのだろうけれど、僕自身の課題としては、受け入れるということが問題だった。それと、理想が高いこと、現実を知らないこと。ここらで僕の頭の問題は示されているように思う。

 

問題は解決する。解決できなければ受け入れる。受け入れられられないなら大変だね。

頑張りたかったね。がんばったね。少しずつやればよかったのかもね。僕には難しかったんだね。欲張りだったからね。怖くなっちゃったからね。病んだよね。一つずつ治していったね。泣いたよね、悲しいことも嬉しいこともあった。日常が送れるなら、問題ないならそれでいいよねと思えるようにもなった。道端に咲いている花がかわいいね。小鳥や猫が愛おしい。自分の中の汚い部分はまだあるけれど、致命的なまで汚れているわけではもうないから、その都度微調整していってる。

 

僕にとって一番大切な人は母だから、家族だから、そこは大切にしていく。

 

結局僕は手に入れることができなかった敗残者なのかもしれないけれど、これでも十分に悪くないし、幸せな時や笑える時もままあるよ。

僕の言っていることが全て正しいわけじゃなくて、でも少なくとも全て一理はあると思う。だから特に言い争いもしたくない。誰も絡んでこないと思うし、自分で自分に絡みにいっているようなものなんだけれど、そういうのも悪いことじゃないと僕は思うからね。

 

もう僕は僕の過去をいじるのをやめようか。今でまあまあ幸せだし。今が幸せならいいんだし。だから結局僕ができてしまうし自分の意見を持ってしまうから、人に僕の思っていることを話すことはあると思うんだけれどね。

 

それぞれの人にそれぞれの言い分が、もっともな言い分が一理はあると思うんだよ。

求め合うなら話し合えばいいし、それが大きなところでは問題にもなっているのかもしれないけれどもさ。あんまりよく僕は知らないんだけれどね。でもなんとなく。

 

こういうことは、普通に働いている大抵の人、忙しくやることがたくさんある人には全く問題にならないことなのだろうけれど、僕にとっては浮かんできたなぁ。

 

結局、僕としてもこのことはこれ以上触れる必要もないし、そんな感じだったんだよって感じで、あらだな日常の具体的なことや、そこから浮かび上がるテーマに取り組めばいいのであって、その過程でつぶさに僕の根幹に舞い戻ることもありそうだけれど、もう僕の中でもこれらは終わっているのかもしれない。

 

僕が僕の問題を解決し終わっているとして。日常をなんとか送っていくだけだから、もう僕の問題は終わっているとして。

他の人のことをついつい僕は考えようとしてしまうのだけれど、大きな問題や厄介ごとや難しいことや喧嘩ごとや面倒ごとを引き寄せてくるかもしれないという予感がしたので躊躇するんだけれど、やっぱりというかなぜか興味を持ってしまう。

他人のことがどうなっているかが気になってしまうからかなぁ。

僕は僕のことだけをやっていればいいのかもしれないけれど、僕はすることがないから、他人のことをあれこれ思うことも思うくらいなら実害がないなら悪いことではないように思う。

 

答えはもう問う前からわかっている感じがしていて、仕方なかったんだなぁってのが答えになりそうなんだけれど、あえて問うてみようかなとも思うのだ。つまらないかな。もう過去に頭の中でやったことのような気もする。

 

つまりは、仕事中毒とか、依存とか、空虚とか、助けるとか、宗教とか、物語とか、真実とか、科学とか、社会とか、問題とか、自然とか幸せとか、楽しみとか、人間関係とか、そういうことを僕は話したいと思っているんだけれども。

 

しかし、なんで働かないといけないんだろうね。

食べていかないといけないから。楽しいから?

やばい、問題が大きすぎるよう。

 

自由になったらいいのにね。自由ってなんだろうね。

一貫性ってなんだろうね。その人って何でできてるんだろうね。

 

でも結局僕は中途半端だから、なんでもいいんじゃないとか、その都度その都度に適当なことを言って自分もごまかしていたりするんだろうけれどもね。

 

死ぬからね。それは救いでもあるけれど、今悩んでいる人たちをなんとかしないといけないと思って大きなことも動いているわけやんね。僕には大きなことは直接関係してはいないけれどもね。だから僕は一つとして宗教活動をしているんだろうけれどもさ。

 

あんまり悩んでいても不幸になるし、僕は頭が良くないことも自分でよく知っているし、もがくほどの体力も気力も乏しいわけだからさ、無責任で悪者的なところもあるんだろうしさ、ほっとくわけじゃないけれど、ほっといているに等しいんだけれどな。

 

僕は何にもわかっていないんだね。そう思って言い訳しているんだね、その言い訳が当たっているかどうかの検討もできないほど能無しだろうしさ。僕は悪いけれど悩み抜いて不幸になりたくないからさ。いいと思えることをやっていくしかないんだ。キーワードは調整ってことで許してや。

 

何書いてるんだろう。こんなこと書くつもりじゃなかったのにな。本音を書いていけばこんなことを書いていた。ということはこれらが僕が本当に言いたかったことであり念頭にあることだったんだろうな。

 

これらが僕の価値観ってやつなのかもしれないな。

怖。

 

あとさ、依存って怖くないですか?中毒って怖くないですか?

特に依存って言葉が怖い。気持ち悪くすらあります。どんな意味合いでこの依存って言葉を使っているのか自分でも明瞭じゃないんですけれど、自分のことはさておいて、概念的に僕は生理的な嫌悪をこの依存って言葉に感じてしまう。この生理的な嫌悪を感じるってことに依存している自分にも嫌悪という刃が向かってくるところに、どうしようもなさが溢れているよ。

 

なんで僕が依存って言葉が好きじゃなくてどちらかというと嫌いなのかというと、自分が消えてしまう印象を依存という言葉に持つからだと思う。だからと言って何にも依存していないまっさらな自分というのはいないというかあり得ないと思うので、僕は深いレベルではなくて、割と単純に低い現実的なレベルで、何か固定的なものに対する恐怖というか嫌悪みたいなものがあるんだろうなと思う。

 

固定的な人。固定的な人は自分の可能性すら消してしまっていると思う。

なんでそんなに確かなものとして自分があるのだ。かと言って全てぐにゃぐにゃで全てが捉えようがなかったら、場が不安定すぎて何も自分が思うことはできないだろうから、結局ここでも僕の思っていることは根本的や究極的なことではなくて、単純に低いレベルの、堅い意見で攻めてくるなちゃんと柔軟に賢く知って対応してくださいよってことが言いたいんだと思う。もしくは自分の親に言いたかったのかもしれない。そんな親を生み出した社会に言いたかったのかもしれない。そしてなんでそんな社会になっていたのかを知りたいし、どうしたらいいのかを考えてみたいのかもしれないよう。

 

それが僕の基本的なところだし、こんなこといちいち表明することでもないんだけれど、ここは一応誰かがもしかしたら見るかもしれないという前提の意識を持つことによって僕の中から生み出されてくる僕の思いを書いているので、それはそれで僕の暇つぶしというか人生ですし。

 

揺蕩っているうちに死んでいくんだ。意味もわからず重要なことをしたりしなかったりして、訳もわからずすごいことが起こったり起こらなかったりして変化していくんだ。なんとなく対応しているし対応していくんだ。そういうもんでしょというのが僕の感性だし、人生だし、こんなことにいつまでも付き合っている必要もないし時々確認したりしていればいいんだろうし。

 

でもこういう基本的なところに触れていると、空虚感は薄れる感じがするな。

虚しくないかな。

 

だからこういうことを書いていくのは悪くて無意味なことじゃないんだろうなぁ。

 

 

22.05.01.03

本を読もうとしたけれど、やっぱりなんか書きたいなと思ったので戻ってきた。

僕は結構寂しい生活を送っている。友達みたいな人はいない。電話してつながれば話せるような人は数人いるけれど、その人たちも忙しいしそんなに親しいとも言えない。働いていないから仕事上の付き合いのような関係もない。病院の患者関係の集まりに行けばなんとなくの居場所のようなところは持っているけれど、ほとんど行っていない。寂しさを感じはじめているこの頃なので、これからは時折行ってみようかとは思っているけれど。薄い感じの知り合いは割にあるけれど、親しいという感じでは全くない。そんなんじゃない。

 

だから、といっていいのかなんなのかわからないけれど、本を読むことが好きだ。

村上春樹さんが好きだし、燃え殻さんが好きだ。phaさんもいい。西加奈子さんもいい。それくらいかなあ、特に好きだと言えるのは。

この方達の作品は手元において繰り返し読みたい。僕は読んだ本を処分する習慣があったので、手元に残っていないことが多いし、繰り返し読むこともほとんどなかった。

けれど、この方達以外の作品を読んでいくなかで、自分のお気に入りの作品というのは少ないものだし、繰り返し読んでも十分に楽しめるのではと感じるようになってきた。

だから、好きな人の好きな作品を手元に揃えて、繰り返し読むこともしていきたいと思う。

 

そして、僕は暇だ。

タバコを二週間ほど前にやめたんだけれど、タバコは暇対策にもなっていた。それは単純に依存していただけなのかもだけれど、さらにまだ依存から完全に抜けきってはいないような気もするけれど、タバコをやめてから暇をより一層強く感じるようになった。

でもお金の関係でもうタバコは吸えない。それにゴホゴホと咳や痰もでていた。もう完全にやめ時だなと思ったのでやめた。そう言い切っている。

タバコをやめてからちょこちょこ昼寝をするようになった。睡眠時間は増えたと思う。離脱症状の一種なのかもしれないけれど。あと暇対策として、近所のコンビニまで歩いてちょっと買い物に行くことが増えた。のむヨーグルトだけを買って店先で飲む。それが気分転換。他に暇対策として書くようになった。ちょっと前のブログにも書いたけれど、I日に何度とノートにぶつぶつと独り言を書くようになった。タバコを吸っていた時は、吸いながら物思いにふけっていたので、それの代償行為としてぶつぶつノートに独り言を書くのが心地いいのだろうなと思っている。

それくらいだなタバコをやめてからの変化は。

お金の節約、健康。暇関連。書くこと。

 

なんか、久しぶりに寝たくないなと今感じている。

何かを求めてしまっているのかな。自分と向き合うのが快楽になっているのかもしれない。結構虚しかったからな。ここのところ。そう言えば僕の人生なんて大抵虚しかったような気がする。20年近く引きこもっていたし、社会とのつながりも高校を中退してからほぼ断絶していたし、精神疾患になっていたし。書いていなかったけれど、僕は統合失調症の診断を受けて今でも薬を飲んでいる。薬を飲んでいるおかげだと思うけれど、今は症状はほぼ全くないし、極々まれに被害妄想みたいな感覚がやってくることはあるけれど、それはとても疲れて消耗している時だ。そう、今は特に病気だということを意識することはない。働こうとして作業所などにいこうとすると、調子がガタガタと不安定に崩れてしまう。だから、こうやってぼんやりとなんの悩みもなく気楽に生きているようには他からは見えるだろうけれど、これでようやく安定しているのだ。この安定を外れるともう日常を普通の状態で送ることができなくなる。

 

今まで散々こんな自分の人生に悩んできた。今も完全に人生の悩みと無関係になっているのではないのだけれど、大体今では自分の人生を受け入れているし、これから寿命が尽きるまでの時間もぼんやりと想像がついて受け入れているつもりだ。

 

自分の悩みや病は、つまりの一言で言って仕舞えば、「働かないといけないと怖がりすぎていたこと」だと思う。もう働かないと決めたし、無理だと思って受け入れたので、僕の人生にあった中心的な悩みは消えた。だから、外に出てのんびりとした時間を過ごすようになった。普通に散歩に行って公園に行って、時々、外で食事をしたりして普通に人がやるようなことを、僕はするようになった。僕は引きこもっていたから、そういう普通のことを全くしてこなかった。それだけで僕は自分に感動したし、そんな生活が新鮮だった。今はそんな生活は僕にとっても日常になっているけれど。いろいろと趣味を持とうとしたけれど、どれもそんなに興味は続かなかった。本を読むこと、それと書くことも少し。それだけがずっと続いている。

 

だから、僕は食べていけるんだから、日常を送りながら、外に出て時々人と会って、本を読んで書いたりして過ごしていこうと思う。

 

それだけで僕はもう十分だと思っている。今まで散々悩んでいたけれど、僕はもうそれで十分になんとか満足してやっていくことができる。かなり遠回りしたけれど、ささやかすぎるところに到達した感じだけれど、僕は僕の人生をこれで良いものだと思っている。

 

22.05.01.02

メロンパンを食べている。さっきブログを一つ公開したところなのに、ほとんど間をおかず次にこれを書いている。特に書くことが決まっているわけでは全くない。誰かに読まれるかもしれないという感じが、書く動機の一つになっているのではないかと思う。

 

どうせ他にすることもないし、晩ご飯も食べたし、いつもなら適当にYoutubeでもパラパラと見て夜は9時頃には寝てしまうのだ。その生活リズムは崩したくないので今日もいつものように9時には寝ようと思う。今夜の7時だから、寝るまであと2時間だ。本当に何もすることがない。今僕の年齢は40代の半ばだ。余命がどれくらいあるのかは知らないが、20−30年くらいあるとしたら、結構退屈になると思う。なぜなら仕事をしていないし、やる気もないし何せ働こうとすると体調を崩してしまう。もちろん結婚なんてしていないし、子供もいないので家庭を持つという役割なんてない。せめて母に長生きしてもらって見送ること。あと兄弟の子供の成長を願うこと。それといくつかの人間関係のこと。あとはただなんとなく、なるべく心地よく生きることだけ。

 

睡眠薬が処方されているので、寝る30分前の8時半に飲む。

今日は母がスーパーで買ってきた出来合いの食べ物を食べたI日だった。部屋の床に置いてあるゴミを拾って、本を読んで寝るとしよう。またこのブログに今日戻ってくるかどうかはわからない。今読んでいる本は、いとうせいこうさんの『想像ラジオ』。まだ読んでいる途中だけれど、不思議と所々ぐっと感情にくるところのある本だ。それでは。

22.05.01.01

さてコーヒーをいれてきた。お湯を沸かしてスティックコーヒーを溶かすだけ。それで十分だ。いれてすぐに飲みたいから少し水を足して温度を下げる。

音楽はスマホミスチルを流しているのをワイヤレスイヤホンで聞いている。特にミスチルが好きというわけではないのだけれど、なんとなくミスチルは害にならないというか、落ち着いてずっと耳に流し続けることができる。これは優れた音楽である証の一つだとも言えるかもしれない。とにかく今ミスチルを聞いている。カップに入れたコーヒーをテーブルに載せて。MacBook Airの古いのでこのブログを書いている。

 

今まで何度かブログを立ち上げては書いていこうとしていた。しかしどれも数日で続かなかった。あるところで詩のようなものを書いていたことがあって、それは数年ほど続いたし、snsになんとなくの日常を投稿していて、それも日常の習慣にはなっているが、自分の本音をあまり飾らずこういった長めの文章といった形で書いていくのは初めて。

だから、これはこれで自分が求めているものであるような気もするので、続けることができればいいなと思う。

 

今の時間は、夕方の6時半を過ぎたところ。もう普段の僕なら完全にI日の終わりの雰囲気に包まれる時間だ。今日もまあいつもと変わらないと言えば変わらないのだけれど、まあ今日はブログを始めたので、なんとなくこの時間になっても気分が少し違う。楽しめそうなものを見つけたかもといった感じで。

 

部屋は蛍光灯のオレンジ色の灯りを灯している。僕は母親と二人暮らしをしていて、母は自分の部屋に今いる。僕も僕自身の部屋にいる。椅子に座って、足を組んで腿の上にmacを置いて書いている。充電はまだまだ十分にあるな。

 

今日はほとんどどこにも出かけなかった。世間は今ゴールデンウィークだ。今日の僕は朝に散歩に行って、日中に近所のコンビニにのむヨーグルトを買いに行ったくらい。いや、今日はのむヨーグルトは買いに行かなかったかな。このところの習慣なのだけれど今日はいかなかった気もするし行った気もする。記憶があやふやだ。すぐ近所の児童公園で缶コーヒーを飲んだのは確かに今日だった。それくらいすることがなかったのだ。

 

今日決めたことがある。それは通信制大学を辞めるということ。僕は自由になるお金が限られている。授業料はもはや払っていられない。明確な目的があって通信制大学に入ったわけでもない。特に課せられたお勉強が好きというわけでももちろんない。ただなんとなくだ。暇でふと思ったから入った。そういうことにしておこう。やめてもそんなに退屈にはならないだろう。大学の勉強に依存していたわけでは全くなかったし。

それが今日決めたこと。今日のメイン的なことだった。

 

明日は古書の即売会があるので、出かけようと思う。電車でトコトコ行こうと思う。

お金が何せあまりないので、本も特に買う気満々というわけではなく、手ごろな値段で興味深い本があれば、一冊か二冊買おうかなと思っている。それくらい。

 

書いていると、精神が安定するなあ。誰も読んでいないだろうし、誰かの目に触れることも可能性がゼロとは言えないとは言え、ほぼないだろうし、気楽に書き流していこうと思う。これからも。

 

今日から思うままに書いていこうと思う。

特に何も考えることなく、思ったことを書いていこうと思う。

僕は一日たいていの時間を暇にしている。働いていない。お金を稼ぐ仕事をしていない。精神疾患を持っているから、その障害年金と幾らかのお金で日々を暮らしている。

詳しいことはまた今度書くと思うけれど、働くことはもう諦めた。体調的に行って無理だからだ。I日でやっていることは、本を読んだり近所を散歩することくらい。あと小さな畑を借りているので、たまに畑作業に行く。畑は最近始めた。

 

ふと思ったんだけれど、僕はI日のうちに何度かノートにボールペンで書く。内容らしい内容はないんだけれど、なんとなく書きたくなってつらつら10行ほど書く。いつも同じようなことを書いている。誰に読ませるためのものではない。このブログも似たような感じで、自分の精神衛生上いいかなと思って、暇潰しにもなるかなと思って、書いてみようと思う。

 

僕はコーヒーが好きだ。タバコはやめてから二週間近くが経つ。

コーヒーを飲みながら音楽を聞きながら書くことが好きだった。

そんな感じでこれから書いていきたい。